日々のアウトプット

日々起こる事に対して、私なりに思う事をを勝手気ままに綴っています。

アナタの世界

人はそれぞれ「コレは良い、コレは悪い」などの判断を持ち、その数は無数であり、アナタの世界はアナタの判断にまみれ成り立っている。

食事中のマナー、食べる物の基準、その日の天気状況、服のセンス、車の運転の仕方、挨拶の仕方、健康状態…つまり、話し方から考え方から、全てのものに「アナタ」なりの判断が付いて回る。

しかし、アナタの判断は、他人のソレとは違う。

アナタが感じる世界と、アナタ以外が感じる世界は全く別のものという事。

なるべく同じような世界にしようというのが学校制度や日常に溢れている情報操作等とも言えるが、それに対し疑問を持つ者も多く現れてきているのも事実である。

やはり思想を統一しようとしても無理がある。「普通」ではないように見えるこの世界も、実は普通な自然の流れでしかない。


綺麗事②

一つハッキリしている事がある。

それは、みんな自分の為に生きている
という事である。

それを自覚している人、そうでない人。

「私は人の為に生きている」そう言う人も、
本当は自分の為である。

そんな人には何かしらの違和感を覚える。

それは「綺麗事」だと分かるからだ。
(※自分=世界というような認識を既に持っ
    ている人はまた少し別な話になる)

だが、それに違和感を感じない人もいる。

何故ならその人もまた「人の為」と言いなが
ら本当は自分の為に生きている事に気付いて
いないからだ。

『自分の為に生きている』という自覚がある
人からは、簡単に見破られるものである。

「人の為」…その根っこには、許せなかった
出来事、嫌な思い出、辛かった事、自分の中
で消化出来ていない何か…

そんなものが必ずある。

という事は、『人の為』以前に、まず自分の
根っこに気付いてあげる事だ。

ずっと『人の為』に観えていたのは自分の為
という事に気付く為だった。

『綺麗事』を言っているように感じる
『アノ人』がアホっぽくて嫌気がさすだろう?

そうではない。『綺麗事』を言っているのは
『アナタ』の方だったのだよ。

アナタが観て感じたものは、そっくりアナタ
自身を映し出している。

もう自分の為に生きて良いのだ。
(気付いてしまって良いのだ)

やってみれば分かる。

上手くやろうなんて思わなくて良い。

『お金の為』なら『お金の為』で良い。

ずっと流れに抵抗し『上手くやろう』と
頑張ってたんだろう。

流れに乗るのは『怖い』だろう。

だが、自分の為に生きる事が、全体の流れ
に乗る事であり、全体の為であるのだよ


治さなくてはいけないという思い込み

「体に不調があったら治さなくてはいけない」…というのも、固定観念である。


誰でも歳をとれば体に不調は出てくる。それは当たり前であり、それが人間というもの。


だが「若い頃のように動きたい」…それが苦というものである。

「若い頃のように動けないのは悪い事」…それは何処からか貰って来た固定観念である。

もしくはどこかの商売人の洗脳とも言える。


「あの頃のように…」という思いから、不自然なものを取り入れる。


そしてやがてその「不自然さ」が生んだ新たな「不自然さ」に苦しむ事になる。


「不調に抵抗」するのではなく「不調と共に生きる」のである。




「嫌い」は実は好き

例えば、以前の記事に

「もし本当にスピリチュアルという言葉に対して嫌悪感があるならば、そういう本やブログなどを読まない事だ。そういう話をしてくる人がいたら距離を取れば良い。」

と書いたが、なんだかんだ嫌悪を感じながらも読んでしまうものだ。

何故か?

それは好きであるからだ。


「いや、本当に嫌いなんだ」

と言うかもしれないが、深く探ってみれば気付くと思う。

もしくは「攻撃」するのが好きか、自分の正当性を示したいかだろう。

どちらにしても、単に「嫌い」ではない事に気付くだろう。それはつまり、その「相手」を通して「好き」があるという事だ。

スピリチュアル②

一般には「非科学的」と言われるものが「スピリチュアル」というカテゴリーに入れられているようだ。

だが「科学的」というものも、単に仮説を証明されたものに過ぎない。


「地球は丸いはず」なのに球体のどこに立っていても誰一人落下する事が無いのは「重力」だと科学的に証明されたからだ。

だが、重力という科学的な証明がされていなければ、その原理は摩訶不思議なものであり「スピリチュアル」なものであるだろう。


例えば妊活をしていた人が「諦めた」途端、妊娠をしたなんて話はよくあるが、そんな話は科学的な証明が無いので「スピリチュアル的」なものになる。

勿論例外も多いが、それは科学的に証明されたものであっても例外はつきものだ。


我々が普段気付いていないだけで、世界は摩訶不思議なものにまみれている。


それを「スピリチュアルなものだらけ」と捉えるか「当たり前だらけ」と捉えるかは、結局のところ同じである。




犬のように③

「生き物」らしくなってくると、次第に他人に対して違和感を覚えるようになる。

「何故そんなにこだわっているのだ?」

「何故そんな事をしているのだ?」

「何故気付かないの?」

苛つく事もあるだろう。

その「苛つき」は、密かにアナタからも感じられていた事た。だがアナタはそれについて責められた事は無い。

アナタは許されていたのだ。



悪いお金

当ブログは自分及び他人を許すという目的…はもっていないが、許す目的に使用してもらえれば幸いと思っている。決して責める方向は望んでいない。


さて、「悪いお金」とはなんだろう?


今何かと話題になっているようだね。


仮にアナタが凄腕営業マンだったとして、大した商品だと自分でも思っていないモノを、あたかも凄い良い商品かのようにバンバン売っていたとしたら、それは「悪いお金」とは違うのかな?

そもそも売りつけた相手の持っているお金も「悪いお金」かもしれないね。


勿論合法だし、騙している感覚も無いだろう。

だが世の中そんなものだらけとは言えないだろうか?


パチンコはどうだろう?そもそも三店方式の仕組みそのものが「騙し」のようなものではないか?

コマーシャルはどうだろう?起用された芸能人は本当に使っているのか?


効果なんてハッキリ言ってよく分からないサプリメントや、デメリットだらけでもメリットだけを強調して販売するやり方もあるね。

あまり大きな声では言えないが、医療だって似たようなものだ。全部ではないがね。

実は私も一応医療関係者ではあるが、患者さんの帰り際に必ず言う「お大事に」には違和感がある。医院側の本音は「ありがとう」なのは言うまでもない。特に個人病院などはそうだろう。

とにかく「売ること」「稼ぐこと」。これに関しては多くの人がそうだろう。


「騙し」とは違うが、生き物の命を売る商売なんかはどうだろう?


「騙す」感覚の大きさに差はあれど、大きな視点から見ればどちらも同じようなものではないだろうか?


大きな視点から見れば、我々人間などみんな同じようなものだ。